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最終回 いざ鹿鳴館へ 

 大河ドラマ「花燃ゆ」が終わった。
 群馬県令として「群馬から新しい日本を創ろう」と奮闘していた楫取と、楫取を支え自身も女性の教育など地道な活動をしていた美和。 二人のところに鹿鳴館への招待状が届く。鹿鳴館に赴いた二人はそこでも貴族や実業家に前橋までの鉄道敷設の必要性を説いたり、その婦人たちに女性の教育について述べたりする。
 群馬に戻った二人のところにやがて嬉しい知らせが入ってきた。就学率で群馬県が全国第1位になった、前橋までの鉄道開通が決まった、など。楫取は群馬での自分の使命は終わったとの思いから県令を辞する決断をする。そして出来上がったばかりの群馬県迎賓館で県職員や女工たち大勢の人が参加しての盛大な送別・感謝の会が催された。その後二人は群馬を離れ、山口県の防府で晩年を送ったという。

 今年の大河に通底するテーマは「至誠の心」と「託し託され思いをつなげていく」であったと思う。吉田松陰たちをはじめとする「新しい日本を創る」という思いが幕末の志士たち、そしてそのあとを受けた明治維新の立役者たちに脈々と引き継がれて行く動きはドラマを見ているものによく伝わったように思う。それにしても幕末・維新の戦いの中であれだけ多くの志士を失いながら次々とその思いをつないでいくものが輩出するとは、長州は何という国だったんだろうと改めてその人材の豊富さ、人材の育て方・育ち方に驚嘆する。
 また、明治の初期に群馬県が日本有数の産業と教育とを持っていたことはこれまで思いもしなかったが、認識を新たに出来た。私は群馬県とはこれまでゆかりはなかったが、群馬県の人に過去の輝きを取り戻すべく頑張るようエールを送りたい気持ちになった。

<大河ブログを休載するにあたって>

 この大河ブログは2010(平成22)年の「龍馬伝」以来6年にわたって書きつないできた。振り返ってみると次のようになる。


西暦年タイトル放送回数ブログ記事数
2010年龍馬伝48回57記事
2011年46回45記事
2012年平清盛50回46記事
2013年八重の桜50回49記事
2014年軍師官兵衛50回50記事
2015年花燃ゆ50回54記事
合計294回301記事

 思えばこのブログも当IT利活用研究会会員のITスキルアップのために始めたもの。会員を複数のグループに分け、回り持ちで当番となったグループが毎週の放映に合わせて記事を投稿してきた。更に、当番グループの中で実際に執筆する人も回り持ちにして全員に執筆の機会があるように、そして執筆を通して銘々のITスキルをアップさせるように、との思いで書きつないできた。

 しかし6年を経て当初から執筆を経験してきた人はもう充分なスキルがついていること、また近年入会したメンバーの多くは既にこの程度のスキルは持っていることから、このブログを書きつないでいく意義は薄れてきた。ここに一旦筆を置く次第である。当面再開の予定はない。
 とは言え、メンバーのITスキルアップは当研究会の使命の一つであり続けるだろう。この使命を果たすべく時宜に適った新しいやり方、メンバーのニーズにあった内容で、それこそ「託し託され思いをつなげでいく」ことを願うばかりである。



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テーマ : 歴史大好き! - ジャンル : 学問・文化・芸術

第49回 二人の再婚

いよいよラスト2回となりました。
ほとんど歴史的に知られていない、吉田松陰の妹を主人公にした大河ドラマ。
どんな結末を迎えるのでしょうか。

お互いを思い合いながらも、気持ちを素直に伝えられない二人でしたが、
ついに結婚を決めるに至ります。

二人が最初に出会ったのは、実は第1回の時からでした。
そのシーンをついつい思い出してしまいます。
「見えない糸で結ばれている気がする」
きっとその通りだったのでしょう。

楫取素彦と美和が二人で並んだ銅像が、山口県の防府天満宮にあるようです。
学問の神を祀った天満宮。

教育に尽力したふたりに相応しい場所だと思いました。

第48回 富岡製糸場の危機

今年、世界遺産になった富岡製糸場へ行った。工場内には機械が並んでいる。
今ある製糸機械は昭和40年以降に設置されたものだが、初めて設置された機械もこのように並んでいたに違いない。
ガイドによれば、ここの機械と同じものが群馬県で今でも使われているそうだ。

映像にもあったが、創業当初はフランス式の繰糸器300窯が設置されて、繭から生糸を取る作業が行われていた。
生産量は拡大し、経営は順調になるが、そのまま右肩上がりに成長することはない。
富岡製糸場の生糸も同様であった。国際競争が激化し、人件費の高騰もあり、赤字が続いていた。
明治政府は国営の産業を民間に払い下げることを強力に推し進めていた。
財政再建をするためである。
しかし、富岡製糸場は民間の受け入れ先がなく閉鎖の危機にあった。
そこで立ち上がったのが女たちである。嘆願書を自ら書き、書いてもらい集めた。
ここで奏したのは女たちが『学びの場』で学んだ知識、教養であった。
本篇の一つのテーマである『教育による富国』が描かれていると思う。
もう一つのテーマは『機械化・自動化』である。日本が工業化へ進んでいくスタートラインがここにある。
明治政府はフランス人、ブリュナを製糸技術の指導者として日本に呼んだ。
技術は外国に依存するしかなかった。
そこには外国の技術を取り入れ日本独自のモノを作ることに優れた日本人の姿がある。
「モノづくり」国家日本の原点があるように思う。
日本は『機械化』と『教育』を武器に急速に近代国家へ脱皮していくのである。

第47回 姉妹の約束

今回は生糸価格の乱高下の中で美和と寿、寿と楫取の絆を中心に描かれました。

生糸価格の乱高下は、1873年恐慌と言われいるものでオーストラリア-ハンガリー帝国の首都ウィーンでの財政破綻から始まったと言われています。1879年まで続いたとされていますが、各国政府の経済政策の経験も未熟で、国による影響や期間もまちまちであったようです。
経済活動が世界的規模になり、生産力と通貨供給量のバランスが狂うと影響もすぐ世界的規模になり、インパクトも大きくなる時代が始まりました。ここでイギリスは失われた20年を経験します。この後ヨーロッパ列強はアフリカ分割などの新帝国主義政策をとることになります。

こうなると一企業の打てる手は限られてきます。ひとつは、できるだけ差別化、多角化してリスクを分散すること、もう一つは楫取がやったように、短期的利益よりも信用を重視することくらいでしょう。現代に置き換えても、特に規模の小さい企業にとっては、ゴーイングコンサーンを実現するためにどこまでがまんできるかということになります。

そこで必要になるのは、結局のところ企業理念という信念でしょう。企業存亡の危機に当たり意思決定する際のよりどころがあるのとないのとでは違うと思います。形骸化した社訓、社是は全く意味がありませんが、何もなければいつかはただその日食べるためのお金を優先してしまうことになるでしょう。1973年の石油危機の時、足元を見ないで取引を続けたためにその後取引先の
信用を得た企業を私は知っています。よく言われることですが、信用は日々の積み重ねで長い期間をかけて勝ち取れるものですが、不祥事一つで一瞬にして失われます。東芝やVWの例を出すまでもないでしょう。企業にしろ人間にしろブレてはいけないところでブレてはいけません。長く高い信用を得続けるにはどうしたら良いかを常に判断基準に入れておきたいものです。

さて、物語は美和が設立を進めていた女性のための教育施設が完成し、日本全体の知的リテラシー向上が進んでゆくことになります。差別化のためには、全社員が考える集団にならなければなりません。

第46回 未来への絆

明治10年、県令・楫取の改革は群馬県の人々に容易には受け入れられず、遂には不満を持つ仲買人らにより、共同揚返場で火災が発生する事態になってしまいます。現場に駆け付けられなかった楫取は周囲から批判にさらされます。追い打ちをかけるように、一緒に宿泊していた楫取と美和の中を疑う声が上がりますが、楫取は毅然とした態度で臨みます。
そんな楫取の元を、元奇兵隊隊士で、共に三隅で農業に従事していた中原復亮(なかはら・またすけ)が訪れます。美和は中原の相談に乗り、船津伝次郎を紹介します。二条窪に帰って行った中原ですが、楫取の手助けをするため、群馬県の職員を志望します。
一方、西南戦争で捕虜となった武士たちの扱いに苦慮した政府は、群馬県にもその一部を収監する計画を立てます。かつての主君・毛利家からいち早くその報を得た楫取は彼らに教育を施し自立を目指させる構想を抱き、美和もまた彼らに兄と夫の面影をみて、ともに奔走します。阿久沢権蔵の妻・せいに思いを訴え、協力を得ることに成功します。
すべてが順調に進んでいたかのように見えましたが、ある日美和は久米次郎から寿のことを考えるならば家から出て行ってほしい、という手紙を受け取ります。


明治編に入ってとみに架空の登場人物が増え、フィクションの割合が増して大河ドラマというより朝ドラのようだという指摘もあるようです。
今回は明治7年の佐賀の乱に続き、日本史上最大の内戦である西南戦争が起こった明治10年を舞台にしています。政府は全国規模で不平士族の対応に苦慮しており、今回の話のように、その力を有効活用しようとする動きも実際にありました。福島県中部の安積疏水(あさかそすい)の開拓はその一つです。この工事は西南戦争の翌年、明治11年にスタートし、3年間にわたり延べ85万人を投入して猪苗代湖から安積原野(郡山盆地)にかけて、開削と治水工事が行われ、福島県央地域は一大穀倉地帯に変えました。「明治維新」ととかく政権交代に目が行きがちですが、その後に残された様々な問題を解決しながら、統合と近代化という目標に進んでいくこの時代も、同様にドラマチックな時代であるといえるでしょう。

ドラマに話を戻しますと次回は美和・寿・楫取の関係に変化が起きそうですね。

第45回 二人の友

粗悪品が混じり、生糸の値段が大暴落してしまった。

粗悪品を取り除く施策として、組合を創設して「品質管理」を徹底しようとしたが、仲介人たちから猛反発を食らってしまった。

品質の向上は、昔から非常に大事なことだったが、私利私欲を考える人々によって、残念な事になっている。これを何とかしなければいけない楫取にとっての試練が、見所のひとつと思われる。

試練を乗り越え、富岡製糸場の発展、鉄道の開拓などに進んでいくあたりが、これから最終回に向かっての盛り上がりとなるだろう。

しかし、この「花燃ゆ」と、連続朝ドラマの「あさが来た」は、似た時代と表現が似ているので、ストーリーが混じってきてしまう。(笑)

第44回 運命の糸つなげて

何事においても、これまでの習慣や考え方を変えようとすることはうまくいかないものです。
必ず反発がある。
群馬のこどもたちに教育を施そうとする楫取素彦もそうでした。
そして美和も、製糸業に従事する女性たちが勉強する機会を作りたいと奔走しますが、反対にあいうまくいきません。

そんな折に、美和の亡き兄、吉田松陰の「留魂録」が奇跡的に戻ってきます。
兄の言葉を目にし、決意を新たにする美和たち。
せいに思いの丈をぶちまけます。

また一方、楫取の妻であり美和の姉である寿から、楫取を支えてほしいと言われ・・・
いずれ美和は楫取の妻となるわけですから、今後のどういう展開になるのか楽しみです。

第43回 萩の乱に誓う

群馬県令となった楫取素彦は西欧諸国と肩を並べるために日本の教育をしっかりと整備する必要があると憂慮した。
そこで美和はまずは親に勉強の大切さを知ってもらうために、親が勉強をしてみては・・と提案し教育の大切さを語ったが、取り合ってもらえない
そんな中、前原一誠が主謀者となって「萩の乱」を起こす。前原は政府に民のための政治をすべきだと訴え続けたが、受け入れてもらえず、反乱を起こしたが、この前原の思いを玉木文之進は受け止め、前原を止めなかった。
反乱は明治政府に鎮圧され、反乱軍に加わった寅次郎の兄、民治の長男の小太郎が命を落とし、文之進も小太郎の死を知ってすぐに切腹した。美和や民治、亀ら杉家の人々は悲嘆にくれる。
前原が捉えられた後、木戸は政府側の人間として、日本が新しく生まれ変わるには、武士の特権を奪って、四民平等が必須であり、反乱軍を国力で鎮圧すれば政府の力を世に知らしめることになり、国家は平安になる、と楫取に胸の内を明かす。
士族の反乱は、この後の西南戦争など、他の地でもあったのだが、すべて政府軍の圧勝で幕を下ろす。
「誰にも死んでほしくないのに。どうして大事な人ばかりが。」
群馬に戻ってきた美和は、楫取にこころの内を語るのだが、やはり国を強くするには誰かが犠牲にならざるをえないのだろうか。
経済政策、安保法制を軸とした外交など、より強固な国家を作るためにも何らかを犠牲にせざるを得ない、現在の政府にも通ずるところがあると思う。富国強兵を軸とするこの時代の明治政府の政策と、一億総活躍社会の実現を掲げる現在の政府の政策とをダブらせてドラマをみていくのも、興味深い。
美和と楫取も、より強固な国家を作るために、群馬の地で日本の教育を根付かせていくのである。

第42回 世界に賭ける糸

新天地の群馬にやっていきた美和と寿だが、切符の良い上州女たちの勢いに圧倒される。自分自身は知らなかったのだが、上州女は心優しく情に厚い上に、気が強い分仕事も家事も人一倍頑張るとのこと。群馬県のホームページ等をみると、上州人の気質を築いたのは、「蚕糸業」との関わりに言及している。それほど「蚕糸業」が根付いていたのだと改めて実感した。

一方、群馬県礼として就任した楫取素彦も「よそ者」扱いを受け、職員たちにも中々認められず苦労をしていた。地元では、製糸業を取り仕切っている重鎮「阿久沢権蔵」がにらみを利かせており、楫取の前にも立ちはだかっていた。そんな折、楫取は富岡製糸工場を視察。そこで星野長太郎との出会いがあった。民間で器械製糸場を作った星野は、富岡製糸工場のノウハウを懸命に学ぼうと必死でった。星野の弟の新井領一郎も生糸の販路開拓を実現すべく、アメリカに渡ることを強く望んでいた。そんな熱い思いに心を動かされた楫取は、何とかその夢を実現させようと県庁内で奮闘。確かにこの時代アメリカに渡り、ビジネスを行うというのは一大事業である。失敗すれば多額のコストがかかり、大きなリスクがあった。ただ、この大きなリスクを背負ってでも新井を渡米させたいと楫取に思わせたのは、星野、新井の「生糸を通じ日本を発展させる」という強く熱い思いであったと思う。
いつの時代でも人を動かすのは「パッション」。その「パッション」は私欲からくるものでなく「志」であるということを改めて気付かされた一面であった。

また、楫取が新井の渡米協力依頼を阿久沢にするが、もちろん中々うまくいかない。そんな時に、阿久沢の説得に協力したのが美和、そして阿久沢の妻のせい。二人のナイスなアシストで交渉は成立。晴れて新井はアメリカに渡ることになった。美和は新井にアメリカに夢と希望を抱いた板兄寅次朗の魂(脇差)を託し送り出した。

時同じくして、弟敏三郎の危篤の知らせが届き、美和は駆け付ける。そのかいもなく敏三郎は他界した。敏三郎の死に直面し、美和は初めて敏三郎の「せわない」に支えられていたことに気付く。過去の回想もあり、何とも切ないワンシーンであった。

大河ドラマもいよいよ終盤戦。次週以降も楽しみである。

第41回 いざ、群馬へ

明治5年(1872年)、官職を辞して野に下った松下村塾出身の前原一誠(佐世八十郎)は、政府の方針に異議を唱え、不満を持つ士族の若者たちがその周囲に集うようになります。その中には美和の甥・小太郎と元養子・久米次郎の姿もありました。

いっぽう殖産興業(しょくさんこうぎょう)を進める政府は、群馬県に富岡製糸場を設置します。
そして美和の義兄・小田村伊之助改め楫取素彦の元に、群馬県令への就任の依頼がもたらされました。
藩の職を辞して三隅で農業振興のため活動していた楫取は一度はこれを辞退しますが、農民達から国のために出て行ってほしいと勧められ、赴任することになります。
病が思わしくない楫取の妻・寿のサポート役として、美和もこれに帯同することになりました。

一方、久米次郎は東京で学問をしたいと願い出、楫取はこれを許可します。



その才は実甫に及ばず. その識は暢夫に及ばず. しかれども其の人物の完全なる. 二子も亦八十に及ばざること遠し
(才能は久坂に及ばず、見識は高杉に及ばない。しかし人物の完全さにおいては、この2人もまた、前原には遠く及ばない)

吉田松陰による前原一誠の評です。至誠の人物・前原にとって、師や同輩の犠牲の上に築かれた明治時代は生きにくい時代だったのでしょうか。

一方で新時代を舞台に楫取、久米次郎らそれぞれの人生が新しい展開を見せた回でした。

ところで楫取の県令就任の経過はWikipediaで確認してみますと、例によってドラマでは大幅に省略されているようで、明治5年(1872年)に楫取が就任した役職は実際には「足柄県」(現在の静岡県と神奈川県にまたがる地域)の「参事」で、1874年に「熊谷県」の「権令」となり、1876年に「群馬県」の「県令」と県名・役職名が移り変わっています。

中でも足柄県時代の上司である権令は柏木忠俊(かしわぎ ただとし)という人物で、韮山代官・江川坦庵の腹心の部下として、今年世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の一つである韮山反射炉の建設にも関わった人物です。
参事として着任した楫取はこの柏木の元で精力的に働いていたようで、ドラマ的にもこの辺りを飛ばしてしまうのはなんだか勿体ない気がします。

今回、大きな役割を果たす富岡製糸場は1870年に「官営模範工場」として設立が決定し、1872年11月4日に創業しました。従って、史実では創業時には楫取はまだ足柄県にいる訳ですが、その後に大きく関わって行ったのは確かでしょう。このドラマを機会に日本の近代化の過程に関心を高め、勉強して理解を深めていきたいと思います。

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